Friday, January 31, 2014

英語版ウィキペディア「慰安婦=comfort women」の和訳バージョン



慰安婦についての罪は、日本の帝国主義が行ったことです。
もしもあなたが日本人ならば、特に大和民族であるならば、先祖のしたことについて、いつもいつも謝っている必要はありません。
それは不公平ですよね。
あなたにできるせいいっぱいのことは、最も誠実で民主的な政党に投票することです。
自民党、特に安倍の率いる自民党は欺瞞的で、国家主義的で、日本と世界の平和にとって害になります、経済に対してもです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Comfort_women

日本の教科書は、第二次世界大戦中の慰安婦について、ごまかしています。
韓国や中国が、なぜ、安倍やほかの総理大臣が靖国参拝をすると、バカにされたように思うのかを理解することが重要です。

帝国日本によって虐待された慰安婦の範囲(または程度)を否定することによって、安倍が靖国を参拝したということは、基本的には、安倍はA級戦犯たちに、西洋諸国が行った戦争裁判によって、間違って有罪にされてしまった彼らを弁護してあげたというふうに、報告しているのです。

ですから、安倍やほかの閣僚の靖国参拝は、平和を祈っているのではなくて、気の毒な慰安婦もいなかったし、南京大虐殺もなかったんだから、A級戦犯は間違って有罪にされてしまったんだということを、報告しているのです。

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慰安婦とは、第二次世界大戦中に、大日本帝国によって、売春をさせられた女性や少女たちのことである。
「comfort women」という名称は、日本語の「慰安婦」から来ている。
慰安婦は娼婦の婉曲な言い方であって、売春婦のことである。

どれくらいの女性が関わったかの推定については、変遷を経てきた、少ないところでは、ある日本の学者は2万人と推定し、ある中国の学者は41万人としているが、正確な人数についてはいまだ調査・議論がされている。
朝鮮、中国、フィリピンさらにビルマ、タイ、ベトナム、マレーシア、台湾、インドネシア、そしてほかの日本が占領中だった地域から連れてこられた女性たちは、慰安所に供された。
慰安所は日本、中国、フィリピン、インドネシア、マラヤ、タイ、ビルマ、ニューギニア、香港、マカオ、仏印に置かれていた。
オランダやオーストラリアから来た少数の欧州女性も関与させられていた。

彼女たちの証言によれば、若い女性たちは、日本帝国の支配下にあった自国からさらわれた。
多くのケースでは、女性たちは、工場やレストランで働かないかと誘われた。
一度雇われたら、女性たちは外国の「慰安所」に監禁された。

1 慰安婦システムの確立
1.1 日本軍の買娼
1.1.1 概要
1.1.2 査問と裁判の最新記録

1.2  慰安婦の人数
1.3 出身国
1.4 慰安婦の待遇
1.5 朝鮮

2 この問題の経過
2.1 謝罪と補償
2.2 争点
2.3 生き延びた慰安婦たち
2.3.1 水曜デモ
2.3.2 ナヌムの家
2.3.3 慰安婦による記録

3 健康関連問題 
4 旧慰安婦のリスト
5 その他
6 参照
7 外部リンク

【1 慰安婦システムの確立】

日本軍兵士のための慰安婦にするために無理やりペナンに連れてこられた中国人とマレーシア人の少女(の写真)←英語版wikiを参照のこと。

スタジオで撮影されたJan Ruff O'Herneの写真は、彼女や母や姉妹が、ほかの数千人のオランダ人女性や子供とともに日本軍によって、アンバラヤに抑留されたときに撮られた。
数か月後、O'Herneとほかの6名のオランダ人女性は、日本軍の兵士によって昼夜関係なく繰り返し強姦された。

「1.1 日本軍の買娼」

軍の報告書によれば、日本軍が慰安所を設立した目的は、レイプ犯罪と兵士の性病感染を防ぐため、これによって占領地の居留民の敵対心を抑えるためだった。

日本におけるよく組織化されておおっぴらな売買春文化のもと、日本軍に奉仕するための売娼組織を設立することは当然と見られていた。
日本軍は、性病感染とレイプを防ぐために、慰安所を確立した、兵士を慰安して、密通による裏切りを防ぐため。
ともあれ、最初の2つの問題については、慰安所は解決にならなかった。
日本の歴史学者の吉見義明によれば、彼らは問題を悪化させたという。
吉見は、「日本軍は、兵士の欲求不満が爆発して暴動や反乱を起こすことを最も恐れていた。それが女性を供給した理由である」と断言する。

「1.1.1 概要」

最初の「慰安所」は、日本軍の関与によって、1932年に上海に作られた。
初期の慰安婦は、そのような仕事に応募してきた日本人の売春婦だった。
ともあれ、日本の軍事的膨張に伴い、日本人売春婦だでは足りなくなり、地元民の女性たちに、慰安所での奉仕を強制した。
工場の仕事や、看護婦に応募してきた多くの女性は、性的奴隷として抑圧されるということを知らなかった。

戦争初期には、日本の当局者は、慣例的な方法で売春婦を集めた。
誘拐をするいっぽうで、都市部では、仲介業者による通例的な募集も行われていた。
仲介業者は、新聞で、日本や日本の植民地である朝鮮、台湾、満洲、中国での求人広告を出した。
これらの方法による人集めは、特に日本ではすぐに底をついた。
外務省は、大日本帝国のイメージが汚されると思って、これ以上日本人売春婦に渡航ビザを出すことに抵抗した。
日本軍は、特に朝鮮や占領下の中国など、本土以外の場所から慰安婦を集める方針に変更した。
多くの女性が、騙されて、軍の売春宿に連れて来られた。

戦争が進むと、状況は悪化した。
緊迫した戦争下において、軍は、じゅうぶんな補給ができなくなってきた:それに応じて、各部隊が、地元民に食料を要求したり略奪をはじめた。
特に仲介業者がいないような前線では、軍は、しばしば地元のリーダーに対し、女性を売春宿に提供するように要求した。
特に相手が中国人の場合、地元民が反抗的だと思われた場合には、日本兵は「三光作戦」
を適用し、地元民に対して無差別に誘拐とレイプを行った。

アメリカ戦争情報記録事務所がビルマ人の20人の慰安婦から聴取した内容によると、少女たちは高給がもらえると誘われたという、家族の借金が払えると、仕事は簡単だと、別の国・シンガポールでいい暮らしができると。
こうした間違った表現によって、多くの少女が海を越えて送られ、ほんの少しの円がその報酬となった。

「1.1.2 査問と裁判の最新記録」

2007年4月17日、吉見義明と林博史は、東京裁判の記録を発見したことを公表した、7つの公的書類が、軍が、特に特警隊(海軍警察)が、憲兵隊(陸軍警察)に襲われた父親の娘に、中国やインドシナやインドネシアの前線の娼婦宿で働くように強制していた。
これらの書類は、当初は戦争犯罪裁判のために、公的に作成された。
それらのうちのひとつには、売春宿を組織して、自分も利用していたというある大尉の告白が引用されていた。
ほかのソースによると、特警隊メンバーは、街で女性を逮捕して、医学的検査を受けさせたあとに、売春宿に送り込んでいた。

2007年5月12日、ジャーナリストの梶村太一郎は、オランダ政府から、東京裁判のために提出された書類を発見したと発表した、1944年に、マゼランにおいて、大規模な売春強要があったという証拠である。

2007年9月、韓国政府は、Bae Jeong-jaを、慰安婦集めのための、親日派の協力者であったと名指しした。


「1.2  慰安婦の人数」

公的書類の欠如が、慰安婦の総数の推定を困難にしている、膨大な数の、日本の指導者の戦争犯罪と責任に関する証拠品が、戦争終結の際に、日本政府の指示によって、破棄された。
歴史家たちは、特定の場所にいた兵士の数を示唆するような、残されている証拠や、女性たちの交代率から、女性たちの数について、いろいろな概算に辿りついた。
はじめてこの問題に学問的に取り組み、公にした歴史家の吉見義明は、5万人から20万人の間と推定している。

これらの概査に基づいて、ほとんどの国際メディアは、20万人の若い女性が兵士によってさらわれて、日本兵のための売春宿で働かされていたと引用している。
BBCは、「20万人から30万人」とし、国際法律家委員会は、「歴史家の概算によって、10万人から20万人の女性」としている。


「1.3 出身国」

バッファローのニューヨーク州立大学教授ヨシコ・ノザキとほかのソースによれば、女性の大多数は朝鮮と中国の出身だった。
中央大学教授の吉見義明によれば、およそ2000の慰安所に、20万人の日本人、中国人、朝鮮人、フィリピン人、台湾人、ビルマ人、インドネシア人、オランダ人、オーストラリア人の女性たちが監禁されていた。
日本大学教授の秦郁彦によれば、許可を受けた売春宿で働いていた女性は2万人以下であり、その40%は日本人で、20%が朝鮮人、10%が中国人、残りが30%のほかの女性たちである。
秦によれば、日本国内における、日本政府の許可を受けた売春婦の数は第二次世界大戦中でも17万人しかいなかった。
ほかの女性たちはフィリピンや、台湾や、オランダや、東インドや、ほかの日本占領地域から来た。
あるオランダ女性は、アジアにあったオランダの植民地からさらわれて、性奴隷になることを強要された。

1940年以降の性病治療についての、日本帝国陸軍の医療記録によるさらなる分析により、吉見は治療を受けた慰安婦の率が、慰安婦の総数をごまかすために操作されていたとしても、朝鮮人女性が51.8%、中国人が36%、日本人が12.2%と結論づけている。

オランダ政府の研究によって、日本軍が、どのようにして東インドから女性を強制的に集めていたかがわかってきた。
日本軍の売春宿で働いていた欧州人女性200人から300人のうち、「65人の女性たちは、売春を強要されたことが最も確実である」と結論づけた。
ほかの、難民キャンプで飢えていたときに、食糧や給料を約束されて同意した女性たちについては、そのことから、真相は明らかでない。

現在までに、日本人の女性では、たった一人しか証言をしていない。
これは、1971年にシロタスズコという偽名のもとで証言されたもので、台湾の昭和兵のために「慰安婦」を強制されたことを語った。

「1.4 慰安婦の待遇」

おおよそ4分の3の慰安婦たちが亡くなり、生存者のほとんどが性的トラウマや性病に感染させられた後遺症で、不妊になった。
日本兵のカネコヤスジによれば、「彼女たちは泣き叫んだ、でもわれわれには彼女たちが死のうが生きようが関係なかった。われわれは天皇の兵隊だ。慰安所であっても村でも、われわれはためらわず強姦した」。
殴ったり、拷問するのは普通だったという。
歴史修正主義者の秦郁彦は、カネコの証言は信憑性がないとしている、彼は1940年に陸軍に入隊したのに、1937年の南京大虐殺の話をしているからだという。

オランダ人女性たちは、ジャワの強制収容所から、日本の将校によって連れ去られ、1944年2月に性奴隷にされた。
彼女たちは、「慰安所」と呼ばれる場所で、昼夜関係なく殴られ、強姦された。
この被害者として、1990年に、Jan Ruff-O'Herneがアメリカの公聴会で証言を行った。
「日本の強制収容所での、オランダ人女性の恐怖と残虐と苦しみと飢えについては多くが語られています。しかしひとつだけ語られないことがあります、日本が第二次世界大戦中に関与した、人権侵害に関わる、最も恥ずべき話についてです。「慰安婦」についての話です、従軍慰安婦、日本帝国陸軍に性的奉仕をさせられるために、どうやって意思に反して強制的に「慰安婦」にされたのか。「慰安所」と呼ばれる場所で、私は昼夜関係なく、恒常的に殴られ強姦されました。日本の医者すら、毎回私に性病の検査をするたびに私を強姦しました」。

慰安所での最初の朝には、ヴェランダに並ばされ、Jan Ruff-O'Herneやほかの女性の写真が撮られた、この写真は、日本兵が写真を見て選ぶことができるように、受け付けに飾られた。
その後の4ヶ月間は、少女たちは昼夜関係なく殴られ強姦された、妊娠した者は、強制的に中絶させられた。
恐怖の4ヶ月後、少女たちは西ジャワのボゴールへ移動させられ、家族と再会した。
この収容所は、慰安所に入れられた女性たち専用に隔離されていた、そして日本人は、慰安所のことを誰かに話せば、家族もろとも殺すと警告していた。
数か月後、Jan Ruff-O'Herneはバタヴィアの収容所に移され、その収容所は1945年8月15日に解放された。

慰安所に関与した将校らは、戦争末期に、日本の当局から、ある程度の罰を与えられた。
戦後になって、11人の将校と1名の兵士が、バタヴィアの戦争裁判所で死刑判決を受けた。
裁判所の決定では、容疑は、自主的に応募する女性を雇えという軍の命令に対する違反だとした。
東ティモールの被害者は、月経が始まっていないほど幼くても、奴隷にされたと証言した。
法廷記録によれば、思春期前の少女たちも、日本兵によって、繰り返し強姦された。これらへの関与を否定した者たちは処刑された。

オーストラリア国立大学アジアパシフィックリサーチ分野の名誉教授であるハンク・ネルソンは、ラバウルとパプアニューギニアで日本軍によって経営されていた売春宿について書いている。
彼はラバウルで戦争捕虜になったゴードン・トーマスの日記から引用している。
トーマスは、慰安所の女性たちは、「だいたい一日に25人から35人の相手をしていた」「黄色人の奴隷取引の犠牲者だ」と書いている。

ネルソンはイグサケンタロウについても書いている、ラバウルに勤務していた海軍の軍医である。
イグサは回想録にこう書いている、「女性たちは感染や深刻な不快感の中、働き続けねばならなかった、助けてくださいと叫び、懇願しながら」。

「1.5 朝鮮」

第二次世界大戦中、昭和時代に、朝鮮においても、大東亜共栄圏の一部として確立されたほかの地域のように、売春システムが整備された。
朝鮮のエージェント、朝鮮の憲兵隊(軍警察)、軍の予備役らは、慰安婦の調達と組織化に関わり、自分たちも利用した。
Chong-song Pakは「日本統治下の朝鮮は、管理売春の立役者として、宗主国から移植された売春システムにすっかり適応していた」と見ている。

【2 この問題の経過】
英語版wikiには、このことについてのオリジナルテキストがある。

日本人戦争犯罪者の尋問記録49 

連合軍は、日本兵と同時に「慰安婦」も確保し、彼らの記録をつけた。
1944年、米国陸軍の調査官は、「慰安婦とは、日本軍に従軍し兵士に便宜を供するプロの売春婦であり、プロの従事者にほかならない」と報告した。
報告書は続ける、「食糧や物資がそれほど厳しく規制されていなかったため、彼女たちはまあまあの生活をしており、お金もたくさん持っていて、自由に好きなものが買える程度だった。洋服も、靴も、煙草も、化粧品も…。ビルマでは、彼女たちは将校や男性たちと一緒にスポーツイベントに参加して楽しんだり、ピクニックに行ったり、余興に参加したり、晩さん会に参加したりしていた。彼女たちは蓄音機を持っていたし、町で買い物をすることも許されていた」。
韓国では、朝鮮戦争中と戦争後、隔離された「慰安所」が、国連とアメリカと韓国兵のために運営されていた。
女性たちは「慰安婦」と同じように「西洋人のお姫様」と呼ばれた。

朝鮮戦争後に最後の慰安所が閉鎖されても、慰安婦についての議論は起こらなかった。
1965年に日韓の国交が回復されるまで、それは議題に上ることはなかった。

1973年、千田 夏光という男性が慰安婦システムについて本を書いたが、それは日本人参加者に焦点をあてたものだった。
彼の本は、日韓両方の歴史家から、事実を歪めているとして批判された。
これは、戦後初めての、慰安婦システムに言及した作品であり、この問題についての、1990年代の運動の重要な原点となった。

1974年、韓国のフィルムスタジオが、「女性たちは志願者だった」という、慰安婦と日本兵をモデルにした従軍慰安婦というアダルトビデオを撮影した。
韓国人によって、この問題について初めて本が書かれたのは、1981年だった。
それは、1976年に在日(コリアン)のキムイルミュオンによって書かれた日本版の剽窃だった。

1989年、吉田清治の証言が韓国語に翻訳された。
彼の本は詐欺だということが、日韓両方のジャーナリストによってすっぱ抜かれた、しかしこの出版後、日本兵に拉致されたという証言をする人が、何人もあらわれた。
1996年、ついに吉田は、彼の回想録がフィクションであることを認めた。

複数の証言によって、1993年の河野談話は、強要があったということに言及した。
ともあれ、2007年、日本政府は内閣として、「日本軍や軍将校が女性を拉致したという証拠はない」と結論づけた。

「2.1 謝罪と補償」

1945年8月のラングーン、ビルマ。
ひとりの若い中国人女性が、連合国軍将校から、日本帝国陸軍の「慰安婦部隊」についてインタビューを受けた。
1965年、日本政府は、戦争被害の賠償といて、364百万ドルを韓国政府に支払った。
ともあれ、その当時は、慰安婦の存在は、韓国では知られていなかったので、日本は慰安婦への賠償を行わなかった。
1994年、日本政府は、韓国、フィリピン、台湾、オランダ、インドネシアへの追加の賠償を行うために、アジア女性基金を設立した。
それぞれの生存者たちには、「日本の首相として、改めて誠意を込めてお詫びをするとともに、慰安婦として計り知れない苦しい経験をされ、癒えることのない肉体的精神的な傷を負われたすべての女性への自責の念をお伝えします」という、当時の首相村山富市の署名入りの詫び状が用意された。
ともあれ、韓国挺身隊問題対策協議会、または「挺対協」として知られる非政府団体の圧力によって、またはメディアからの圧力によって、多くの元慰安婦が賠償金を拒絶した。
結果的に、11人の元慰安婦が基金から詫び状と基金を受け取り、142人は韓国政府から基金を受け取った。
基金は2007年3月31日に解散した。

1991年12月、50回目の真珠湾攻撃記念日のころに、3人の韓国人女性が、売春を強要されたことについて、日本で裁判に訴えた。
1992年、1958年にアメリカ兵から返還されて以来保管されていた書類が、自衛隊の図書室で見つかった、日本軍の役割が、「慰安所」などという婉曲な表現ではおさまらない広範囲なものであることを示唆していた。
日本政府は、第二次世界大戦中に、1万人の朝鮮人女性に、日本兵との性行為を強要していたことを認めた。
1992年1月14日、日本の政府スポークスマンの代表である加藤紘一は、「旧日本軍が慰安少女たちの誘拐監禁に役割を果たしていたことは否定できない」「われわれの謝罪と反省を表明したい」として、公式謝罪を提案した。
3日後の1992年1月17日、韓国の盧泰愚大統領主催の晩さん会において、日本の首相宮沢喜一は主催側に語った:「われわれ日本人は、なにを置いてもまず、日本人の行いによってあなたがたに苦痛と悲しみを与えたという悲劇的な時代を思い起こさねばなりません。このことについての、われわれの反省の念は、決して忘れることはありません。日本の首相として、韓国の人々に対し、あらためてこれらの行いについての私の反省の念と、謝罪を申し上げたいと思います」
さらに翌日にも、韓国の国会におけるスピーチで謝罪した。
1998年4月28日、日本の法廷は、政府が女性たちに償いをし、2,300USドル(2013年時点では3,294ドル)をそれぞれに賠償するように命じた。

2007年、性奴隷の生存者たちは日本政府の謝罪を求めた。
当時の首相であった安倍普三は、2007年3月1日に、日本政府がすでに1993年に慰安所の存在を認めているにも関わらず、日本政府が性奴隷を保持していた証拠はないと発言した。
3月27日、日本の国会は、公的謝罪を議題に乗せた。

「2.2 争点」

日本大学教授、日本の歴史家の秦郁彦は、最も考えられる慰安婦の数を1万人から2万人と見積もっている。
秦は、強制的に集められた女性は存在しないと書いている。

一部の日本の政治家は、元慰安婦らの証言は一貫性がなく信用性に欠けるとしており、証拠にならないとしている。
大阪市長で日本維新の会リーダーの橋下徹は、当初は「慰安婦と呼ばれる人たちが、日本軍に脅されて暴力で連れ去られたという証拠はない」としていたが、のちに彼は、強気な姿勢から、彼女たちが慰安婦になったのは「自分の意志に反して」と調整し、それでも第二次世界大戦における慰安婦の役割について「兵士の安息のために」「必要だった」としている。

日本の漫画家小林よしのりによるマンガ本の「新ゴーマニズム宣言 台湾論」には、着物を来た女性たちが並んで、日本兵たちの前で署名をする場面が描かれている。
小林の本は、台湾の実業家Shi Wen-longのインタビューを含んでいるが、彼は強制されて奉仕した女性はいないと発言しており、コンドームの使用が義務化されていたことから、彼女たちは通常の娼婦よりももっと衛生的な環境で働いていたとしている。

2001年初頭に、NHKに関する論争が起こった。
日本軍による性奴隷についての国際女性戦争犯罪裁判に関する報道は、歴史修正主義者の意向を受けて、極端に編集された。


「2.3 生き延びた慰安婦たち」


「2.3.1 水曜デモ」

毎週水曜日、慰安婦の生存者たちと、女性(人権)団体、市民団体ら、宗教団体、多くの一般参加者が、ソウルの日本大使館前で「水曜デモ」に参加している、KCWDMSSの後援によるものである。
最初は1992年1月8日に、日本の宮沢首相が韓国を訪れた際に開催された。
2011年12月、水曜デモの1000回記に、若い女性の像が、慰安婦に敬意を示すために建てられた。
日本政府は、この像を撤去するように繰り返し求めたが、受け入れられなかった。
2012年6月、日本の過激派2名が、像に、90?に渡る標識を結びつけた。
標識には、「竹島は日本の領土」と書いてあり、領土争いとなっているリアンクール岩礁(韓国では独島として知られる)に触れていた。
2012年10月、アメリカのニュージャージーにおいて、慰安婦の碑が、同じように破壊された。
2013年、慰安婦を称える像が、カリフォルニアのグレンデールに建てられた。


「2.3.2 ナヌムの家」

ナヌムの家は、慰安婦生存者のためのものである。
ナヌムの家は、1992年に仏教組織やさまざまは市民団体の協力で設立され、1998年に韓国の京畿道に移転した。
ナヌムの家は、日本軍による慰安婦への虐待の事実を広め、子孫や大衆に伝えるために、「日本軍による性奴隷の歴史館」を併設している。


「2.3.3 慰安婦による記録」

生存者のうちの、Kang Duk-kyung、Kim Soon-duk and Lee Yong-Nyeoは、彼らの体験を絵に描いて保存していた、Center for Asian American Mediaの責任者のDai Sil Kim-Gibsonは、義務教育から大学教育までの学生のためのドキュメンタリーフィルムに、慰安婦の記録映像を撮った。女性の人権を主張したビデオ記録は、被害者や一般人に見せられた。女性の尊厳と人権を学ぶための生きた教材として提供され、年齢や性別や国境や国籍や思想を超えて人々の共感を得ている。

【3 健康関連問題】

戦争が終わったのち、この女性たちは、軍の娼婦宿で受けた肉体的精神的苦痛を思い出した。ロールシャッハテストでは、この女性たちは知覚に歪みが見られた、内なる怒りや感情の制御が困難だった。
2011年の医学的研究によれば、慰安婦たちは、戦後60年が経過しても、PTSD傾向がより顕著であった。

【4 旧慰安婦のリスト】
英語版wikiのリンク先 http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_former_comfort_womenを参照のこと。

以下についても、英語版wikiのリンク先を参照のこと。
【5 その他】
【6 参照】
【7 外部リンク】